なんぼあってもいいですからね

なんぼあってもいいですからね、っていい言葉だ。

お金も、好きな人も、依存先も、なんぼあってもいい。

自分に許諾の念を抱けなさすぎる。数年前に作ったZINEを読み返して、己が如何にネガティブなまま拗らせてきてしまったのか、プライドだけが高くそびえたち、自己肯定感はマントルで燃え尽きてくれるのかもはや不明なほど底深い。

久しく聴いていなかったバンドの曲を、ライブに行けるかもしれないという興奮からプレイリストを作って聴いている。今までの短い人生の間でどん底のターンが2回ほどあったが、その一回目でよく聴いていたのだ。当時のことを鮮明に思い出す、などと言ったおセンチなことは生じないが、でもある程度思い起こされる。私はずっと暗くて、人を信じられなくて、臆病で、寂しがり屋で、歪んだ自己愛のもと人格形成を行ってきた。

周りの知り合いは人生のターニングポイントに立ち始め、他人と人生を共有していっているというのに、一方で自分のケアすらしっかりできていない。だからといって自分がどうでもいいと思えるほど若くもない。どうでもいいと思って放置したとしても、ツケが必ず自分に跳ね返ってくる。周りと比べたって意味がないのは重々承知でも、あまりにも何もできなさすぎる。己を支えるのは己しかいないのだ。誰に何と言われようと、生きているしかない。でも、それを心強く念じられるほど自分を好きでもない。もはや空虚だ。

人に冷たい割に人に冷たくなれない。そこまで他人に興味がないくせに、自分に向く興味には敏感である。生きづらい、という稚拙な言葉で片付けるような、どこか憤りを感じるような一言では表現しきれない、自分の人生とそれを歩む自分の思考回路に壮大なやるせなさを感じる。すべてがマイナーコードで紡がれるのだ。着眼点がそもそもネガティブ。誰も、私に期待などしていないとわかっていながら、私に誰も期待するなと願ってしまう。ありのままを愛する他人などほぼ存在しないのに。ありのままの自分を愛することができるのは、自分自身のみで、ありのまますべてを許してくれる他人なんて本当にいないのだ。

死にたいとは言わないし言えない、他人の死が現実感を帯びてきた。生きづらいとも言い難い、でも生きることは非常に疲れる。現実的な経済的なことだって、政治的な問題だって、世界情勢だって、自分の考えも、家族との関係も、他の人間関係も、仕事のことも、今後のキャリアだって、将来どう生きていくかだって、全部全部、生きる事に疲れてしまった。疲れてしまったというか、常に疲れてはいるのだが、それがかなり表面化してきたように思える。勝手に言ってろ、みんなそれぞれ己の中の言葉が全て正しい。私だって私の中の言葉が正しい。だから、私にはもう関わらないで、語らないで、別の世界で生きていよう。

マウスが見当たらない

といったタイトルで以前記事を書いたことがあるような気もするが、己の中で組み立てられた嘘かもしれない。

 

別に特段なにかを書きたいと思ったわけでもないが、なんとなくこの時間、しかも明日仕事がいつも通りあるというのに、パソコンの電源を入れて、キーボードを叩きはじめてしまった。

 

最近、夜中どころか明朝、日がうっすら昇り始めた頃に床に就く日が週に一度はあり、それは別に不眠であるとか不穏であるとかそういった類のものではないが、酒のおかげでぼわぼわとした脳みそと疲労しきった肉体をベッドに横たわらせることで強制終了させる。心地いいときもあれば、ひどく吐き気を感じることもあり、アルコールのせいではあるが、どちらにせよ次の日の一日を、予定がない限りは大体溶かしてしまう。

 

若干もったいないなと思いつつも、起きた隙間時間で好きな動画をあさり、ご飯をむさぼり、ただただ身体を横にするだけの一日というのは、かなり贅沢に休んでいるという実感が得られる。悪くはないと最近やっと思えるようになった。が、次の日は意外と寝すぎでしんどかったりもする。年を重ねてきた証拠かもしれない。

 

坂を新しく買ったばかりの厚底サンダルで登り、一人でくるくるとそのあたりを回り、用が済んだらさっさといつものカフェへ身をすべらせ、優雅にガムシロップを多めに入れてもらう甘ったるいカフェオレを飲むのはまた一興である。一人で時間を自分に使うことに今日日慣れてきたところだ。それがいいかどうかは正直わからないが。振り返れば人とのつながりというのを渇望しすぎた一年であった。

 

ここ数日間、人とのやりとり、出来事を通し、自分の考えを他人に向けて言語化したり考えたりした結果、ヤマアラシのジレンマ的な、杞憂的な考えを多くしてしまっていることに気づいた。まあ大体の人間関係の内在的な悩みの根源というのは最終的に自分の捉え方によるものだが、それをハッキリと明確に自覚できたような気もする。と言いつつ今後も悩みそうな気はするが、現時点での考え方はこうである。自分の考え方を補強するなり軌道修正するために本を読み漁りたい気分。そう思ったらなんでもどうでもよく、面白おかしく思えてきた。吐き出した言葉は確かに変えられないが、自分の筋と義理を通して折り合いをつけつつも、もう好きなように生きるしかない。距離が近すぎたのだ、なんでも。

 

☆☆☆

 

部屋が汚い。

小さな横長のスペースに対し、ものが溢れすぎている、否、溢れてもいないが、雑然としすぎている。いっそのことすべて捨ててしまいたい。

 

よくして頂いている方に断捨離を勧められ、System Of A Downをかけたり、Slayerをかけたりしながら断捨離に何度も挑んだが、なかなか物が捨てられないというか、捨てているはずなのに体感的に全くなにも減っていないのである。なぜだろうか。自分でもよくわかっていない。

 

断捨離を何度か決行して気づいたことは、言われてみればすべていらないし、言われてみたらすべて必要なのである。インスタグラムで見計らったように時折流れてくる「ホテルライク」な家というのは、到底なれそうもない。かといってなりたいかと言われると、少し違うような気がしないでもない。とりあえずわかることは、床にものをおかないようにしたほうがよい、ということだ。

 

☆☆☆

 

ほくろが増えつづけている。ほとんど毎日化粧をするために鏡に向かうが、自分の顔面のほくろの数はまあ正直数えてはいない。が、それにしても「こんなところにほくろあったっけ」と思うようなものが明らかにある。短歌のセルフライナーノーツにも書いた

 

tokorogadokkoinameko351.hatenablog.com

 

が、私はほくろがコンプレックスのひとつだ。口の下と目の下にもできたのでそれはまあ嬉しいかな。

 

☆☆☆

 

汗で張り付いたTシャツをうっとおしく思いつつもどうすることもできず、家でPCモニターとにらめっこ、お得意のブラインドタッチでもってキーボードをカタカタと打ち続けた。部屋はついに摂氏34度を超え、人肌にも近い温度感で仕事をするというのは非常に酷であり、何かしらの拷問でも受けているような気分すらあった。しびれを切らしついにTシャツすら脱ぎ捨て、誰も見ていないのをいいことに好き放題していたが、生命の危機を感じ、「暑い、暑い」といつぞやの寝言のように呟きながら、合間をみてリモートコントローラーを探した。危うく熱中症で命を落とす老婆になるところであった。3時間ほどかけてやっとラックの下からリモコンとの再会を果たし、私は一命をとりとめることとなる。

 

☆☆☆

 

 

 

私は京都や福岡の話はたしかによくするが、インパクトが強いからであることは明白で、15年間宮城県で生まれ育った。母方の祖母の家は気仙沼にあって、宮城に住んでいた頃は毎年夏休みと年末には祖母の家に行っていた。とはいえ祖母はいとこの家に住んでいたので普段祖母の家というのは誰もおらず、夏に行けば蛇が仮住まいにしていたこともあった。気仙沼はとても田舎で、祖母の家から車を走らせて20分程度しないとジャスコはないし、ジャスコ以外の遊ぶところなどない。漁港の街なので海の市という施設があり、一時話題になった、魚を凍らせる氷の水族館などもやっており、観に行ったこともある。中学2年生のころ部活で行き詰まりすぎた時、見かねた両親が突如気仙沼に連れて行ってくれたことがあり、美味しい釜飯屋ではらこ飯を食べたこともあった。

 

2011年の3月11日に地震があった。私はその日、次の日に開催される予定だった卒業式の準備のために体育館におり、卒業式のリハに出て、そのあとの掃除で友達と赤い絨毯に掃除機をかけ、端っこに座り恋バナでもしていたような記憶。最初に小さな揺れがあり、割と地震に敏感だった私が「地震だ」とつぶやいた次の瞬間、大きな揺れが来た。体育館にいた生徒、先生たちが一斉にグラウンドに走った。イレギュラーにめっぽう弱くいつもと完全に違う外の様子に異常に震え上がり、大泣きした。

 

半壊した我が家には帰れず、そのまま避難所になった中学校の体育館で一泊し、いとこの家に避難した。1ヶ月くらいはお世話になった覚えがある。父は仕事柄家に帰れなくなってしまい、次の家を探す暇もなかった。いとこは県内のさまざまなところから人が集まる学校に通っており、津波が来た地域の友達もおり、ただ家が半壊しただけの私たちを家に泊めておくのを嫌がっていたのも知っていたため、非常に狭苦しい気持ちでいた。

 

家が見つかり、引っ越し、いろいろと落ち着いた頃、我が家だけで父母双方の実家に行くことになった。何もなくなった海沿いの道を車で走りながら、家族で泣きながら見た。海の市のあたりも街頭が根元あたりから折れたままで、釜飯屋もなくなった。何も無くなったというか、全部消えてしまって、さまざまな残骸と土しかなかった。みんなどこへ行ってしまったんだろう。

 

小さい頃、いとこたちと気仙沼の海水浴場へ行った。別に綺麗な海、というわけでもないが、水着を着て海に入り、非常に楽しく過ごした。車から海が見えると、毎回タイミングなどわかっているはずなのに、叔父だったり叔母だったり父母や祖母が「ほら、海見えたよ!」と言ってくる。

 

昨日、海に行った。琵琶湖には行ったことがあったけど、友達と海へ行くのは初めてだった。おつかいというほどでもないが、私が買っていくよと言っていたものがあったため、意外と時間がかかり、他のみんなより遅れて到着することとなった。

電車に揺られながら海が近づくにつれ、小学4、5年生くらいの頃に一度だけいとこと祖母と私の3人だけで、電車で気仙沼に行ったことを思い出した。いつも車で行くのだが、電車で遠出するのは初めてで、心臓の位置がどこにあるとかそういう話をしながら言った記憶。海が見えて、わぁ海だね、なんてはしゃいだ覚え。電車からぼーっと外を見ていると水平線が見えてきて、泣けてきた。一人で乗っていてよかった、それとも友達といればおしゃべりしながら乗っていただろうから特に泣くこともなかっただろうか。古き良き思い出というほど美しい思い入れもそんなにないが、たまらなく泣けてしまった。年を少しずつ重ねてきて、涙もろくなっただけかもしれない。

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海など、秋田でも福岡でも沖縄でも行ったのに、思い出すのは気仙沼の海だった。謎の気持ちだった。

淡輪の海は静かで、波の音が聞こえて、水も綺麗で、まあ親は反対するだろうけど、私の人生なので。将来は海の近くに住みたいなとか思ったりした。

神的おばあちゃん

友人たちと別々の暖簾をくぐり、私はひとり銭湯の女湯脱衣所へ足を踏み入れた。早朝およそ6:30前頃。それでも扉の向こうの風呂場を見やれば、地元の人々と見られるおばあ様方が3人ほど湯舟に浸かっていた。

脱衣所の茣蓙が敷かれた大きなボックス型になっているベンチに、おばあちゃんが一人座っていた。お風呂上りなのであろう、髪の毛は濡れており、うちわでパタパタと顔をあおいでいた。推定70代中盤ぐらいであろうか、私はこういう年齢あてゲームにめっぽう弱い。

なんとなく会釈をして、おもむろに15番のロッカーを開け荷物をいそいそと入れていると、おばあちゃんが話しかけてきた。

 「今日はいい天気になりそうやねえ?」
 「そうですね、いまも綺麗に晴れてましたよ。」
と無難な会話を交わし、会社帰り、オフィスカジュアルのまま遊んでいたため、シャツボタンに手をかけたとき、会話がまた再開した。

 「あんた、いま幸せなんか?」
突然すぎる質問、内容も内容なので宗教勧誘か?と訝しげな気持ちになりながらも
 「まあ、ぼちぼち」と答えた。
 「あんた、何歳なの、へえ、24歳。まだ若いじゃない。私なんかよりも全然若いよ。幸せか?いま幸せに暮らしてるんか?自分の生活が幸せかどうかを決めるのは自分自身だよ。」と続いた。
 「友達となんかがあった、恋人と別れた、なんて言って『私は捨てられたんだわ』なんて思わなくていいわけ。『私にはもっといい人がいるんだわ』と思って過ごすのが一番。自分の気持ちが、自分が幸せかどうかを決めるんやから。『お前なんか~』って言われても気にしなきゃいいわけ。わかる?今日家に帰ったら、このことについて考えてみるといいよ。」と言い、すっくと立ちあがり、ほな、と片手をあげておばあちゃんはいなくなった。

あまりにも突然の説法、しかし今まで接客業をしたりとりあえず人当りよく対応することができたりするため、うんうん、と聴き、ありがとうございました。とお辞儀をし、おばあさまを見送ったわけだが。いやしかし、あまりにもタイムリーな説法で少し面食らってしまった。昨今人間関係やら恋愛やら幸せやらについて考えては落ち込んだり途方にくれたり虚無感に襲われて離人的な感覚に陥って不安になったり、自分ってかなりくだらないことを考えているのでは?と自責したりしていたからだ。

おばあちゃんがいなくなり、服を脱いで風呂場へ移り、身体を洗いながら、現実ではあるけれど夢でも見ていたかのような謎のお話を、睡眠およそ3時間のためまだ起ききれていない脳みそでやんわり反芻した。露天風呂へ移動すると外気がひんやり身体にあたり、お湯の暖かさがちょうどよかった。備え付けのテレビを見ると7:04だった。
不思議なおばあちゃんだったなあ、と思いつつ、言っていることはかなり的を射ていると。善意だろうが悪意だろうが、結局は自分の解釈次第で決まるのだし、正当性バイアスではないが、何かとポジティブな理由をつけて自分へ落とし込んでいくほうがよい。

それにしても、あのおばあちゃんは何者だったのだろうか。私の顔が暗かったのだろうか?それともなんとなく説法を説きたい気分だったのだろうか?これに関してはおばあちゃんしかわからないことだが。占い師は誰にでも当てはまるようなことをさも相談相手をよくわかっているように話す話術に長けているようで、それは日常生活でも起こることであるし、人間の悩みのほとんどは人間関係についてとアドラー心理学でもよく言われるので、私にだけ特別響く、というわけではないだろう。しかし早朝であること、たまたま脱衣所に二人きりだったこともあり、少し面白い小さな神様に会ったような気持ちになった。

風呂から上がり、一通りのスキンケア等を済ませて脱衣所を出ると、まだ友人たちは風呂を出ていなかった。柔らかいソファにぽつんと体育座りでおさまっていると、テレビの音量もちょうどよく、眠気が襲ってきた。友達を待っていてこの後は3人で喫茶店へ行くという予定があり、私はふわふわのソファでうとうとでき、外は快晴で、お風呂に入ってさっぱりもでき、このうとうとを過ぎればきっとコーヒー牛乳を飲むんだ、などと考えた。小さいことではあるが、これは幸せ。いま幸せだなと感じた。

走馬灯短文

 

仕事帰りに電車へ乗って目を瞑ると、ちょうど窓からの西日がチカチカと入り込み、まぶたの裏側の暗闇に閃光が走る。走馬灯の時はこんな風に線香花火があたりを舞うのかしら、とロマンチズムに浸る。走馬灯と聴くと幼い頃からメリーゴーランドがなぜか頭をよぎるが、実は一度も乗ったことがない。密かに未だに憧れがある、着飾られた白い馬、綺麗な立髪と角、赤い別珍の布を被った背中に乗って、辺りは眩い星が光っては消えて私を送り出すのだ。記憶を駆け抜けたい。アニメの最終回のエンディングで流れる、ワンクール分の総集編のような感じで思い出がスクリーンとして現れるのだろうか。

 

 

猫とか虎が好きだ。悲しくて仕方ない時期、猫を抱えて大学の東屋で泣いたことがある。神聖視している節はある。中学生の時にエッチングで白い虎を彫ろうとしていたが、地震があったあとエッチングの板は行方不明になった。3年前にアルバイトしていたスカジャン屋でもらったスカジャンの絵柄は虎である。自由気ままに生きて最後はひっそりと死ぬ、綺麗好きで潔癖で、疑り深い生き物が好きだ。

 

 

久しぶりに高校時代、一回だけレコーディングしたコピー音源を聴いた。チャットモンチーの風吹けば恋を録音したのだが、まあまあ酷かった。ドラムに対してさほどの熱量を持っていなかった割には完璧主義も相まって失敗するのが嫌で、自分が一番上手じゃないと嫌で、気乗りしないと思いながらも練習した。ドラムに対しては複雑な気持ちがあるが、今となってはもっと上手になりたいと思えるようになった。しかし練習は嫌いなのだが… ドリーム・シアターの元ドラマー、マイクポートノイだかが、ほとんど練習をしないみたいなインタビューを読んで、それなのにこんなに上手いの腹立つ、と思った覚えがある。叩きすぎるとよくない、的な思考らしい。気持ちはとてもわかる。

 

 

香水が好きなのだが、つい最近手に入れた香水が何かの匂いと同じで、でも全く思い出せない。大学生の頃に買った、割とチープでプラスチックの容器に入ってるようなコロンだったような気がする。大きなちゃんとした瓶で買っているわけではないがブランド名こそ有名な香水も増え、かなりかいつまんで楽しんでいる。何個か試して思ったことは、今まで学生時代に買った安めの香水と似た匂いのものが意外と多いということ。これから数ヶ月はどうしてもこの甘くて飴みたいな懐かしい匂いを何と重ねているのか、しばらくモヤモヤしそうだ。

 

 

左上の奥歯の詰め物が取れて、痛い。歯磨きをしていたらコロッと取れて、あれ?と思って吐き出してみると中学時代に入れた銀歯だった。昨年歯医者に行った際に「銀歯は取ってふつうの詰め物にしとくね」と言われたのでてっきり自分の口腔内から金属は消えたと思っていた。まだ銀歯残ってたんだ、という今更な気づきを得たのと同時に、「銀歯でアルミを噛むと静電気が生じてちょっと痛い」という事象を、結局10年ほど銀歯を潜めていたわけだが、一回も経験しなかったなと、ちょっと残念に思えた。

 

 

今年はスキーへ行きたい。運動があまり得意ではないがスキーは好きだ。ギャグではない。冬のシーズンになればスキー教室へも通っていた。自分の板とヘルメットも持っていた。モーグルは苦手だったがスラロームは好きだった。ジャンプ台で失敗して腰を強打してからはジャンプ台を避けるようになってしまったが、それでもスピードが出るものが好きなのだ。地域柄もあるが、スケートも趣味程度だがやっていた。懐かしい。スピードといえば高校時代にバイクに乗りたくて、父がハーレー好きだったこともあり、「私もハーレーに乗りたいので免許を取りたい」と言ったところ、両親に「背がたわん、足が届かんやろう」「ハーレーは重い。自分で起こせないといけないのにできないと思う。」とボロクソに言われた。とりあえず今年はスキーへ。

 

 

初めて料理をしたのは小学生の頃、作ったのはフレンチトーストだった。その後もお菓子作りに興じたり、フワフワのホットケーキを作るのに躍起になったりした。高校時代に母が入院し、まともに「ご飯系」のものを作らなくてはならなくなった。母の入院前、料理を教えてもらったが手際がよくないわ包丁の使い方が微妙だわで「今まで混ぜて焼くだけの料理しかしてないから」と呆れられた。そんなこと言われてもだな。今となっては料理上手枠に入れられることが増えたが、サークルの引退時にもらった冊子の私のページに「カレーと餃子しか作ってなくない?」と後輩からいじられており、「わかる」と思った。

 

 

中学時代、クラスの隣が図書室だったこともあり謎に本の虫になりかけたことがあった。言うほど読んでないので全然虫ではない。森見登美彦湊かなえにどハマりし、特に当時『告白』が映画化されたこともあり湊かなえの小説は読みまくっていた。私が個人的に好きなのは『贖罪』である。何故か図書室には『撲殺天使ドクロちゃん』が当時刊行されていた分全巻が揃っており、途中から興味本位でそちらを読んでいたが、正直どんな内容だったか一ミリも覚えていない。同じクラスの男子ィ〜がエロゲーD.C.』(ダ・カーポ?)のセックスシーンの挿絵を、同級生によって授業中に先生にバラされるという事件の方が100倍記憶に残っている。ちなみに彼はオノマトペの授業の際に先生が「ひらひら、とかコロコロ、とか」と例を挙げたあとにボソッと「サラサーティ」と呟き、突如教室に静寂を連れてきたことがあった。

 

 

授業で思い出したが、高校1年の頃、まだまともにクラスに通って授業を受けていたのだが、当時そんなに学力が高くないクラスにいたため、先生によっては無法地帯のこともあった。特に数学、物理、生物の先生は歳が若かったこともあり、かなり動物園みたいな状態だった。面白い話をしろと振られた生物の先生が、自分の部屋の間取りを黒板に書き出したことがあり、特に面白くもなく、彼女いじりをされて終わった。何故か数学の時間に、トイレにある「音姫」の話になり、すると同級生の女の子が「女のトイレには音姫っちあるけど、男子やったらなんなん?音王子なん?」と言い出して未だに思い出して笑う。2年生に上がる頃には晴れてクラスのステージが上がったのだが、楽しさで言えば圧倒的に一年生の頃のクラスが勝つ。

 

 

高校時代の先生たちは面白く、特に印象に残っているのが古典の先生だった。小学生のころ地球滅亡を信じて休日の学校の校庭で、友達何人かと手を繋いで輪になってその時を待っていたとか、死のうとして冬の道路に横たわり、轢死を目論んだが田舎すぎて車が通らず、寒さにキレて帰ったとか、予備校時代にゲイ映画館と知らずに友達と入りナンパされた話とか、奥さんがなんやかんや好きとか、いろいろな話をしてくださった。面白かった。大学時代の友達の話はなかでもインパクトが強かったが、まさか自分も似たような体験を数年後するとも知らず、15歳の私は「すげーな、大学生」と思っていた。すでに10年経つという残酷な現実。先生がご存命であることを願うばかり。

 

 

思春期にて、人の傷みをわかる人間にならなければと思うようになってから、特に地震を経てから、過敏に余計に人の顔色を伺うようになった。弱音を吐いても「もっと辛い人がいる」と言われた時期だったので、自分を自分の感情を淘汰していかなければならなかった。当時に戻れるなら、悲しみは比較できるものではない、ましてや他者に強要されることでもない、悲しい時は悲しさを感じておこうと抱きしめてやりたい、自分を。家が壊れて転居、転校をし、緩やかに病んでいってしまったのだが、当時たまにお世話になった病院の先生が「勉強ができることと幸せになることの能力は違う」と教えてくれた。その通りだと痛感する日々を送っている。

 

 

またもや中学時代、お腹を壊し、病院へかかった。古い病院だったが腕のいい先生で、青い羽の扇風機と黄ばんだ古いエアコンのある診療室。MDのようなものをヘアバンドでくくりつけた先生がキャスター付きの椅子をシャーッと滑らせ部屋を縦横無尽に駆け(?)、資料を見せながら病状の解説をしてくれた。私はあのシャーッ、が好きで、憧れている。ここ数日隣のデスクと自分のデスクを行き来しなければならず、ここぞとばかりにキャスター付きの椅子をシャーッと滑らせ移動した。10年来の小さな夢叶えたり。

 

 

コンバースが好きで、小学校高学年ごろから大学2回生までコンバースしか買わない、履かない時期があった。時期というか、だいぶ長いな。レモン柄のコンバースと、黒のハイカットの裏地が赤いタータンチェックコンバースがツートップでお気に入りだった。足が割に大きく24cm前後を履くのだが、身長だけは本当に全然伸びなかった。足が大きいと背が大きくなると聞いて育ったのだがあれは嘘だ。でも夫婦の身長差が大きいと子どもは意外と小さい、はいまのところまだ信憑性がある。両親の身長差はざっと30cm程度、母は父と並んで歩く時、顔を見て話すのを早々に諦めたという。ちなみに私は152cmと153cmを毎年行き来している。妹は私よりも小さい。実質私が家族で2番目に背が大きいのだが、世間に出ると自分の小ささを思い知らされる。井の中の蛙大海を知らずということなのか?

 

 

青文字系ファッションが好きで、頻繁に買いはしなかったがzipperとFRUITSが大好きだった。目玉にリボンがついたヘアゴムもちゃんと持っていた(なくしたが)。ちなみにあれは目玉の部分が取れやすいのだ。きゃりーとゆらちゃんが大好きだった。とある号のzipperの付録が、たしかKISSのポール・スタンレーと同じ、目に★マークをつけた猫のダイカットミニバッグで気に入って使っていた。高1の担任の先生が大人しい柔らかい雰囲気をしながらもセックス・ピストルズが大好きというクソデカギャップを持っていたのだが、「私もそれほしい、おばちゃんがzipper買っても大丈夫かなあ」と私にこそっと言うてきて、可愛いなと思った。毎週の個人日誌で音楽の話ができて嬉しかった。