感情

とある人間に右脳と左脳の話をされた。

曰く私は「右脳で感じている情動を幼少期に周囲から抑えられてきたので事実を淡々と左脳からアウトプットするだけのことが多い。感情はあるけど言葉にするのは苦手。」とのこと。

 

「そんな貴方にはこういうトレーニングが…」という謎のインチキ感がそこらじゅうを浮遊し始めたところで私はその人の話を両耳から入れて3分の2くらいはそのままザルから流れさせていたわけだが、感情をアウトプットする能力が低いことは薄々感じていた。稚拙でもいいからこれからは嬉しいときには嬉しいと言い、嫌なときには嫌と言うように心がけていきたい。基本的にNOが言えなくて、内にグルグルといろんな思考を巡らせているほうなので、脳直でものが言える人は嫌味っぽくなってしまうが少し羨ましい。私みたいな考え方まで来ると忖度とかそういうものではなく、ただの損でしかなくなってしまう。ただただ消費されるだけの存在にはならないようにしたい、自分自身が一番そう。自分の感情ってなんだろう、時間をもらえるのであればこうこう、こう思ってますとは説明できるが、それは感情ではない?嬉しいとか悲しいとかつらいとかしんどいとか幸せとか楽しいとかが感情?幼稚園児でももう少し上手くやりそうなところだ。

 

 

先日、直接関わりはあまりないが非常に悲しい出来事があり、体調不良で会社を早退して病院を探そうとした矢先にそれを知ったために、ゲロを吐きそうなくらい体調が悪かったことも相まって涙が止まらなくなってしまった。マニキュアが禿げた親指をカリカリと弄りながら電車を待つしんどさ、引っ込むことはしばらくなさそうに静かに流れるしょっぱい水を拭ってなんとか家路に着いた。

なんとか身体を引きずって病院へ行ったが、体調不良の原因は結局脱水症状だった。点滴を打って少し回復した。病院の先生と看護師さんは安心するタイプの人たちだった。引っ越したいと強く願っているが、病院ガチャはなかなか当たりを引くのが難しいので、これだけで今の家にとどまり続ける理由ポイントが高まってしまった。

 

 

病院代は高くつく。この4ヶ月間で血液検査をすでに3度行い、来月また血液検査が控えている。この歳になっても未だに注射が怖い。針を入れる瞬間も怖いが引き抜く時も割と痛い。病院代も料金が最初からわかっていればいいものの、先生に「これが心配なのでこの検査しましょう、この検査もしておきましょう」と言われると「した方がええのか、まあ病院なんて滅多に来ないしな」とNOは言えず、お会計時に目をかっぴらいて泣く羽目になる。すこぶる健康体なのにこんなに病院に行かなきゃいけないのは嫌だ、と思いながらも弊社の社長に「身体が悪いんちゃうか、病院に行って」と懇願され病院へ行く。そして大したことないことが自分でも重々にわかっているのでヘラヘラ笑って報告することしかできなくなる。

 

 

ママチャリのカゴ部分に黒いポリ袋が厳重に被さりガムテープで止めてあった。人間の足でも入れてるんだろうかと想像しながらスーパーへ入る。そういえば、と。知り合いのお姉さんがゴールデンカムイを読んで「死んだあとに自分の存在を後世に少しでも伝えられるように家族がほしい」と思ったらしい。

ここ数か月で急激に自分の周りで「結婚」という熟語が蔓延りはじめ、個人的には少し辟易すらしている。しかし父が「私の父」になった年齢を私が超えたこともあり、どこか他人事のようなただの憧れであった概念が、突如現実味を帯びるようになり、時折結婚について考えるようになった。中学3年、転校する前の中学校の担任が、過呼吸で倒れた私を見舞いに保健室に来た際に「恋愛をするという意味で付き合いたい人と結婚したい人は違うんだよ」と英語なまりで話してくれたことが、少しずつだがわかってきたような気がする。数年前に先生のFacebookをのぞいたら一軒家を建ててどうやら一人で暮らしているようだった。たくましい人だ。不貞をはたらく人の話が芸能人からミクロレベルまで耳に入る機会が多く、恋愛とかお付き合いとか結婚とか、そういったものに対して正直不信感は抱きがちかもしれない。安心感は勝る、何事も。

 

 

寂しさを感じることが多くなり、頻度は以前より増えて悲しみが広がる加速度も増してきた。どんなに仲が良くてもお互いのことを全て分かり合えることなど難しく、私は私をよく把握できていない部分もあるし、ましてや他人の気持ちをそっくりそのまま理解できることもない。私はあなたをよく知らないし、あなたも私をよく知らない。ただ、話をしていて一瞬でも、その人個人の柔らかい感情の部分が垣間見えたとき、全く同じように解釈して感じる事はできないけど、受け止めておきたいとは思って人と接している。そうは見えないことの方が多いだろうが。「あなたは頑固だよ」と言われて、頑固そうに見えるところが私にあるんだろうかと逡巡する。

「君の考えてることはよくわかるよ」というセリフはよく言えるなといったところで、冒頭に書いた人間にうさんくさいトレーニングの話をされたあと、「あなたがどう考えているか当ててみましょうか?本当にこれで現状がよくなるんだろうか、と考えていますね」とドヤ顔で言われたが、実のところ全くそんなことは考えておらず、「1回6000円のトレーニングを月二回、12000円、医療脱毛か歯列矯正を契約した方がええな」というのが正解であった。

 

 

どんなに寂しくて悲しくて独りぼっちで実は死んでいるんじゃないだろうかと思うような日でも、必ず喉は乾いてほおっておけば脱水症状で体調は悪くなり、そうでなくとも腹は減り、横になればいつの間にか寝ていて、気づけば新しい日が来ている。他からどう見えていたとしてもたしかにそこに愛があった瞬間はあり、脳ではそれを抱きつつ細胞は新陳代謝を繰り返し、人間関係も新たに作られていく。無常かつ無情で、人間として生まれたことを悔いることすら人間でしかありえないんだろうなとか考えながら、私はアボカドとエビの炊き込みご飯を作る。