感情の変動とは

 

連日の九州で起こった地震の関連ニュースを見るたび、心が傷みます。

あまり地震が来ない九州地方です。14日以降からはショックと悲しみが連続するばかりでなく、個人的には東日本大震災のことも思い出し、二重に心苦しいです。稚拙なことばしかでてきません。もう地震なんていやだ、みんな元気に生きていて、もう誰もが悲しい思いをするようなことは起こらないでほしいと。ほんとうに、そう思います。

わたしの住んでいるところはなにもありませんでした。すごくやるせない気持ちだけが残っています。せめてできることは地震があった地域にいるみなさんの無事を祈ること、経済を回すことくらいです。そしてなにより、なるべくいつも通りに過ごすことかなと個人的に思うのです。3.11の地震のときのことを思い出すと、そうするのがわたしのなかでは一番いいと、そう思うのです。

さて、先日わたしは映画を観てまいりました。誘ってくれてありがとうございました・・・ほんとうに・・・

リップヴァンウィンクルの花嫁という映画です。人間とは汚く、しかし美しいのだと感じました。もう一度観たいです。

年度が変わり、人見知りの激しいわたしだのに、さまざまな人と関わるようになっていて自分で驚いています。しかし人とお話をするのはとても楽しいので、積極的に「人たらし」になりたいものだと思います。

この世で呼ばれる「正しい」「悪い」という概念は、生物として生きる上では無いに等しいものだと思うのです。人間として生まれ、考えて言葉を話すという能力を持つ人間だからこそ、そういう概念が生じ始めたのですね。もしわたしたちに言葉などなく、考える力もなく、ただただ本能のままに生きていたら、すべての行動は生きるためなのだとすれば、それに善し悪しは存在しないのではないのでしょうか。

「それはどうかと思う」「倫理的におかしい」「最悪だよそれ」そういうことを、考えるでしょう。わたしも考えます。人間の間だけに生じる概念で、この世のすべてをどうにかしようとする人間というのは、図々しく、しかし地球上に誕生する生命、なるべくしてなったこと、ということなのですね。わたしたち人間は自分と、自分以外の他人の互いに生じる(一方的な場合もあるけど)感情のなかで一喜一憂しているのですね。仮にこのメタ思考が本当に人間のみに起こるのなら、せいぜいこれを楽しんで、人間である自分を謳歌するにすぎないのかしらん。もう自分が何書いているのかよくわからなくなってきました。

だれでも平等に時間は訪れます。

おそまつさまでした。