私は京都や福岡の話はたしかによくするが、インパクトが強いからであることは明白で、15年間宮城県で生まれ育った。母方の祖母の家は気仙沼にあって、宮城に住んでいた頃は毎年夏休みと年末には祖母の家に行っていた。とはいえ祖母はいとこの家に住んでいたので普段祖母の家というのは誰もおらず、夏に行けば蛇が仮住まいにしていたこともあった。気仙沼はとても田舎で、祖母の家から車を走らせて20分程度しないとジャスコはないし、ジャスコ以外の遊ぶところなどない。漁港の街なので海の市という施設があり、一時話題になった、魚を凍らせる氷の水族館などもやっており、観に行ったこともある。中学2年生のころ部活で行き詰まりすぎた時、見かねた両親が突如気仙沼に連れて行ってくれたことがあり、美味しい釜飯屋ではらこ飯を食べたこともあった。

 

2011年の3月11日に地震があった。私はその日、次の日に開催される予定だった卒業式の準備のために体育館におり、卒業式のリハに出て、そのあとの掃除で友達と赤い絨毯に掃除機をかけ、端っこに座り恋バナでもしていたような記憶。最初に小さな揺れがあり、割と地震に敏感だった私が「地震だ」とつぶやいた次の瞬間、大きな揺れが来た。体育館にいた生徒、先生たちが一斉にグラウンドに走った。イレギュラーにめっぽう弱くいつもと完全に違う外の様子に異常に震え上がり、大泣きした。

 

半壊した我が家には帰れず、そのまま避難所になった中学校の体育館で一泊し、いとこの家に避難した。1ヶ月くらいはお世話になった覚えがある。父は仕事柄家に帰れなくなってしまい、次の家を探す暇もなかった。いとこは県内のさまざまなところから人が集まる学校に通っており、津波が来た地域の友達もおり、ただ家が半壊しただけの私たちを家に泊めておくのを嫌がっていたのも知っていたため、非常に狭苦しい気持ちでいた。

 

家が見つかり、引っ越し、いろいろと落ち着いた頃、我が家だけで父母双方の実家に行くことになった。何もなくなった海沿いの道を車で走りながら、家族で泣きながら見た。海の市のあたりも街頭が根元あたりから折れたままで、釜飯屋もなくなった。何も無くなったというか、全部消えてしまって、さまざまな残骸と土しかなかった。みんなどこへ行ってしまったんだろう。

 

小さい頃、いとこたちと気仙沼の海水浴場へ行った。別に綺麗な海、というわけでもないが、水着を着て海に入り、非常に楽しく過ごした。車から海が見えると、毎回タイミングなどわかっているはずなのに、叔父だったり叔母だったり父母や祖母が「ほら、海見えたよ!」と言ってくる。

 

昨日、海に行った。琵琶湖には行ったことがあったけど、友達と海へ行くのは初めてだった。おつかいというほどでもないが、私が買っていくよと言っていたものがあったため、意外と時間がかかり、他のみんなより遅れて到着することとなった。

電車に揺られながら海が近づくにつれ、小学4、5年生くらいの頃に一度だけいとこと祖母と私の3人だけで、電車で気仙沼に行ったことを思い出した。いつも車で行くのだが、電車で遠出するのは初めてで、心臓の位置がどこにあるとかそういう話をしながら言った記憶。海が見えて、わぁ海だね、なんてはしゃいだ覚え。電車からぼーっと外を見ていると水平線が見えてきて、泣けてきた。一人で乗っていてよかった、それとも友達といればおしゃべりしながら乗っていただろうから特に泣くこともなかっただろうか。古き良き思い出というほど美しい思い入れもそんなにないが、たまらなく泣けてしまった。年を少しずつ重ねてきて、涙もろくなっただけかもしれない。

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海など、秋田でも福岡でも沖縄でも行ったのに、思い出すのは気仙沼の海だった。謎の気持ちだった。

淡輪の海は静かで、波の音が聞こえて、水も綺麗で、まあ親は反対するだろうけど、私の人生なので。将来は海の近くに住みたいなとか思ったりした。