なんぼあってもいいですからね

なんぼあってもいいですからね、っていい言葉だ。

お金も、好きな人も、依存先も、なんぼあってもいい。

自分に許諾の念を抱けなさすぎる。数年前に作ったZINEを読み返して、己が如何にネガティブなまま拗らせてきてしまったのか、プライドだけが高くそびえたち、自己肯定感はマントルで燃え尽きてくれるのかもはや不明なほど底深い。

久しく聴いていなかったバンドの曲を、ライブに行けるかもしれないという興奮からプレイリストを作って聴いている。今までの短い人生の間でどん底のターンが2回ほどあったが、その一回目でよく聴いていたのだ。当時のことを鮮明に思い出す、などと言ったおセンチなことは生じないが、でもある程度思い起こされる。私はずっと暗くて、人を信じられなくて、臆病で、寂しがり屋で、歪んだ自己愛のもと人格形成を行ってきた。

周りの知り合いは人生のターニングポイントに立ち始め、他人と人生を共有していっているというのに、一方で自分のケアすらしっかりできていない。だからといって自分がどうでもいいと思えるほど若くもない。どうでもいいと思って放置したとしても、ツケが必ず自分に跳ね返ってくる。周りと比べたって意味がないのは重々承知でも、あまりにも何もできなさすぎる。己を支えるのは己しかいないのだ。誰に何と言われようと、生きているしかない。でも、それを心強く念じられるほど自分を好きでもない。もはや空虚だ。

人に冷たい割に人に冷たくなれない。そこまで他人に興味がないくせに、自分に向く興味には敏感である。生きづらい、という稚拙な言葉で片付けるような、どこか憤りを感じるような一言では表現しきれない、自分の人生とそれを歩む自分の思考回路に壮大なやるせなさを感じる。すべてがマイナーコードで紡がれるのだ。着眼点がそもそもネガティブ。誰も、私に期待などしていないとわかっていながら、私に誰も期待するなと願ってしまう。ありのままを愛する他人などほぼ存在しないのに。ありのままの自分を愛することができるのは、自分自身のみで、ありのまますべてを許してくれる他人なんて本当にいないのだ。

死にたいとは言わないし言えない、他人の死が現実感を帯びてきた。生きづらいとも言い難い、でも生きることは非常に疲れる。現実的な経済的なことだって、政治的な問題だって、世界情勢だって、自分の考えも、家族との関係も、他の人間関係も、仕事のことも、今後のキャリアだって、将来どう生きていくかだって、全部全部、生きる事に疲れてしまった。疲れてしまったというか、常に疲れてはいるのだが、それがかなり表面化してきたように思える。勝手に言ってろ、みんなそれぞれ己の中の言葉が全て正しい。私だって私の中の言葉が正しい。だから、私にはもう関わらないで、語らないで、別の世界で生きていよう。