京都と私

 

京都に戻りたい。今年絶対に実現したい野望である。

「京都に来てからいいこと一つもないんだよね。」大学進学と共に地方から京都へ来た私と同じ状況の友人は、一回生のときこんな話をした。友人は晴れて就職に伴い上京し、他の友人たちもほとんど東京か地元へと散った。私は5年の歳月を経てなお、京都にいる。否、住んではいないが、やっぱり京都に戻りたい。

一回生の頃、あんなことを言ってしまったから、京都の神やら霊やらに憑りつかれたんだろうか。あれほど京都なんか、京都なんか、と己の大学進学を呪うのと同じように独り言ちたというのに、いまや口を開けば「京都に戻りたい」とロボットのように自然に出てくる。

一度目の違和感は大学3回生の頃だった。入院をし、親が関東からわざわざ大阪へ越してきた。あまり乗り気ではなかったが一緒に住んだ。案の定、一度一人暮らしを経験したズボラな女、しかも両親への確執がある女が今さら家族と一緒に仲良しこよしで住めるはずもなかった。家出同然で京都へ戻った。当時は、両親と一緒にいるために、大阪から出たいんだと思っていた。

2年の再・一人暮らしin京都を経て、今度は私の就職が決まった。当初は京都から通っていたが、往復おおよそ4時間の距離、しかも全く慣れない土地への通勤は心身共に甚大な疲弊感をもたらした。ついに引っ越した。慣れた京都を離れた。

京都を離れたくないという気持ちはあったが、社会人として頑張っていこうという気持ちがあったため、通勤によって体力を消耗して仕事に支障が出ては本末転倒だ、と考えていた。実際そうではあったし、引っ越した後、職場へは自転車で10分程度で通えて非常に快適であった。通勤するという点においては。

しかしそんな職場もすぐに辞めてしまった。上司からの謎の叱咤に耐えられなかった。生意気だとか、逃げているだとか、言われるだろうし自分でも若干それは感じている。コロナ禍で転職も難しく、いまやれっきとしたニートだ。辞めなければよかったなとすら思う。あんなに人に攻撃的な言葉を平気で浴びせることができる人間が、いまだに会社で働いていると思うと非常に腹が立つ。悲しくなってくるので、辞めずに意地でも頑張っておけばよかったのかなとすら思う。でも毎日の胃痛や湿疹や体調不良を考えたら、もう仕方ないのかもしれない。過ぎたことなので何とも言えるのでもういい。

無職になって暇だというせいもあるだろうが、自分には引っ越してきた部屋の中のもの以外、いま住んでいる場所には何もないことを痛感した。そして友人であるとか、心の拠り所だとか、そういったものは京都にすべて据え置いてきたことも肺腑に染み入った。

現実から逃げて逃げて逃げるように、毎日電車に乗り込みいつものカフェへ行く。私ははやく「いつも通り」を取り戻したいのだ。しかしそれもしばらくはできなさそうだ。無職で収入がないこと、コロナによって緊急事態宣言が発令される寸前で県またぎの移動へ辟易していること、帰りの電車の虚しさのこと。すべてが私に襲い掛かる。大げさだが。

家にいるといろんなことを気に病んでしまって希死観念が強くなる。本当は病院にでも通って、カウンセリングにでも行った方がいいのだろうが、いかんせん経済的な余裕がない。コーヒーを一杯、550円で、いつも通りの場所に身をおけるほうが、自分にとっては安く、安心できるのだ。

今年はポジティブに生きていきたい。できるのだろうか。少年ジャンプのようなスローガンで生きていければ一番いいのだが、努力とは自分ではなかなか評価できないため、難しい。もうがんばる気持ちがないのだ。頑張らなければならないのに。鬱々としてしまう。生きねばならないのに。