感情

とある人間に右脳と左脳の話をされた。

曰く私は「右脳で感じている情動を幼少期に周囲から抑えられてきたので事実を淡々と左脳からアウトプットするだけのことが多い。感情はあるけど言葉にするのは苦手。」とのこと。

 

「そんな貴方にはこういうトレーニングが…」という謎のインチキ感がそこらじゅうを浮遊し始めたところで私はその人の話を両耳から入れて3分の2くらいはそのままザルから流れさせていたわけだが、感情をアウトプットする能力が低いことは薄々感じていた。稚拙でもいいからこれからは嬉しいときには嬉しいと言い、嫌なときには嫌と言うように心がけていきたい。基本的にNOが言えなくて、内にグルグルといろんな思考を巡らせているほうなので、脳直でものが言える人は嫌味っぽくなってしまうが少し羨ましい。私みたいな考え方まで来ると忖度とかそういうものではなく、ただの損でしかなくなってしまう。ただただ消費されるだけの存在にはならないようにしたい、自分自身が一番そう。自分の感情ってなんだろう、時間をもらえるのであればこうこう、こう思ってますとは説明できるが、それは感情ではない?嬉しいとか悲しいとかつらいとかしんどいとか幸せとか楽しいとかが感情?幼稚園児でももう少し上手くやりそうなところだ。

 

 

先日、直接関わりはあまりないが非常に悲しい出来事があり、体調不良で会社を早退して病院を探そうとした矢先にそれを知ったために、ゲロを吐きそうなくらい体調が悪かったことも相まって涙が止まらなくなってしまった。マニキュアが禿げた親指をカリカリと弄りながら電車を待つしんどさ、引っ込むことはしばらくなさそうに静かに流れるしょっぱい水を拭ってなんとか家路に着いた。

なんとか身体を引きずって病院へ行ったが、体調不良の原因は結局脱水症状だった。点滴を打って少し回復した。病院の先生と看護師さんは安心するタイプの人たちだった。引っ越したいと強く願っているが、病院ガチャはなかなか当たりを引くのが難しいので、これだけで今の家にとどまり続ける理由ポイントが高まってしまった。

 

 

病院代は高くつく。この4ヶ月間で血液検査をすでに3度行い、来月また血液検査が控えている。この歳になっても未だに注射が怖い。針を入れる瞬間も怖いが引き抜く時も割と痛い。病院代も料金が最初からわかっていればいいものの、先生に「これが心配なのでこの検査しましょう、この検査もしておきましょう」と言われると「した方がええのか、まあ病院なんて滅多に来ないしな」とNOは言えず、お会計時に目をかっぴらいて泣く羽目になる。すこぶる健康体なのにこんなに病院に行かなきゃいけないのは嫌だ、と思いながらも弊社の社長に「身体が悪いんちゃうか、病院に行って」と懇願され病院へ行く。そして大したことないことが自分でも重々にわかっているのでヘラヘラ笑って報告することしかできなくなる。

 

 

ママチャリのカゴ部分に黒いポリ袋が厳重に被さりガムテープで止めてあった。人間の足でも入れてるんだろうかと想像しながらスーパーへ入る。そういえば、と。知り合いのお姉さんがゴールデンカムイを読んで「死んだあとに自分の存在を後世に少しでも伝えられるように家族がほしい」と思ったらしい。

ここ数か月で急激に自分の周りで「結婚」という熟語が蔓延りはじめ、個人的には少し辟易すらしている。しかし父が「私の父」になった年齢を私が超えたこともあり、どこか他人事のようなただの憧れであった概念が、突如現実味を帯びるようになり、時折結婚について考えるようになった。中学3年、転校する前の中学校の担任が、過呼吸で倒れた私を見舞いに保健室に来た際に「恋愛をするという意味で付き合いたい人と結婚したい人は違うんだよ」と英語なまりで話してくれたことが、少しずつだがわかってきたような気がする。数年前に先生のFacebookをのぞいたら一軒家を建ててどうやら一人で暮らしているようだった。たくましい人だ。不貞をはたらく人の話が芸能人からミクロレベルまで耳に入る機会が多く、恋愛とかお付き合いとか結婚とか、そういったものに対して正直不信感は抱きがちかもしれない。安心感は勝る、何事も。

 

 

寂しさを感じることが多くなり、頻度は以前より増えて悲しみが広がる加速度も増してきた。どんなに仲が良くてもお互いのことを全て分かり合えることなど難しく、私は私をよく把握できていない部分もあるし、ましてや他人の気持ちをそっくりそのまま理解できることもない。私はあなたをよく知らないし、あなたも私をよく知らない。ただ、話をしていて一瞬でも、その人個人の柔らかい感情の部分が垣間見えたとき、全く同じように解釈して感じる事はできないけど、受け止めておきたいとは思って人と接している。そうは見えないことの方が多いだろうが。「あなたは頑固だよ」と言われて、頑固そうに見えるところが私にあるんだろうかと逡巡する。

「君の考えてることはよくわかるよ」というセリフはよく言えるなといったところで、冒頭に書いた人間にうさんくさいトレーニングの話をされたあと、「あなたがどう考えているか当ててみましょうか?本当にこれで現状がよくなるんだろうか、と考えていますね」とドヤ顔で言われたが、実のところ全くそんなことは考えておらず、「1回6000円のトレーニングを月二回、12000円、医療脱毛か歯列矯正を契約した方がええな」というのが正解であった。

 

 

どんなに寂しくて悲しくて独りぼっちで実は死んでいるんじゃないだろうかと思うような日でも、必ず喉は乾いてほおっておけば脱水症状で体調は悪くなり、そうでなくとも腹は減り、横になればいつの間にか寝ていて、気づけば新しい日が来ている。他からどう見えていたとしてもたしかにそこに愛があった瞬間はあり、脳ではそれを抱きつつ細胞は新陳代謝を繰り返し、人間関係も新たに作られていく。無常かつ無情で、人間として生まれたことを悔いることすら人間でしかありえないんだろうなとか考えながら、私はアボカドとエビの炊き込みご飯を作る。

 

 

セルフライナーノーツ

 

 

友人がnoteで短歌の解説をしてて、それが良かったので私もやろうと思う。自己満足の延長。

時折Twitter(@usagizushi0863) で披露する恥にすらならないちっぽけな31文字強(弱)ではあるが、やはりいいねが来ると嬉しい。とはいえかなり身内ネタな時もあるわけで、まあわかりやすく語弊のないように、どういう意味かいまいちわからんかったわ、という方へは是非。勝手なスペシャルサンクスを指(@Digital_usaGi)へ。

 

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・半袖のTシャツたちへと鼻をつけ漂う匂いに安心してる

 

この時期はまだ恋人(?)がいた頃で、いわゆるエモ系tankaであるが、まあ実際こうやって自分と実在するのかわからないような存在との繋がりを感じていたわけだ。いじらしくてかわいいと言ってくれ。毎回家に行くたびに洗濯をしてくれたのだが、「他人の家の匂い」が、その人のは特に好きだった。柔軟剤とその人の匂いがして安心できた。フェロモンの関係なのかは知らないが、この人の、この人の家の匂いが好きだ、と感じた人とは結構ずっと仲良かったりする。個人的には。まあサヨナラしているわけだが。人は水。

 

ニトリにて幼児のように戯れ合うまな板のサイズうろ覚え

 

これも同様であるが、私はあまりEx.恋人(?)と外出をしたことがないのだが、片手で数えられる程のお出かけの中にニトリへ行く、というものがあった。新しいまな板が欲しいということで2つのサイズで非常に迷った。私が選んだ大きめのサイズを買ったが実際に帰宅してみると買ったやつはかなり大きかった。なんだか異様に二人ではしゃぎながらいろんな家の道具を見た。

 

・メシアなどSNSにはいないのに今日も元気に徘徊する夜

 

私はかなりの寂しがり屋を営んでいるが、人にうまく甘えることもできず、だからといって没頭するような趣味もなく、何か面白いことないかな、誰かいないかな、くらいの気持ちでTwitterの画面をひたすらスクロールする。実際には何もないので「自分の爪、可愛いなやっぱ」と思うくらいなのだが。むしろ救いどころか劣等感に見舞われ、蜘蛛の糸を探す羽目となる。

 

・恋人に侵食されて色変わりつまらなくなった女の子たち

 

周りに一人はいると思うが、普段は面白くて仕方ないのに男の話になった途端に至極つまらなくなる女のこと。ついここ数日で大森靖子福田花音のことをそう言っていて、あんなにレベチでかわいい賢い歌うまお姉さんもそうなっちゃうんだ、と謎の親近感と安心感を得てしまった。メンヘラは揶揄されやすいが、みんなの中に要素は必ずある。人間臭くていいとは思うが、まあ実際は自分も近しい他人もしんどい。

 

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・髪ほどき束から解放され香る閉じ込められたシャンプーの匂い

 

髪がまだ長かった頃、仕事へ行く時よく一つ結びをしていたのだが、意外とお風呂に入る際にこの髪ゴムを取り髪の毛をゆすると微かにシャンプーが香る。その瞬間が私はたまらなく好きだ。

 

・星空など綺麗に見えなくてもよろしい思い出されるはサンテンイチイチ

 

お察しできるかもしれないが、私は東日本大震災の頃宮城県に住んでいてもれなく被災した。家も壊れて親戚の家に厄介になる前に体育館にて一泊した。中学校で卒業式の準備をしているときに地震があったのでずっと体育館にいたわけだが、夜、一緒にいた友達と落ち着かないまま外に出て、停電のおかげで皮肉なほどに眩く光る星を思わず綺麗だなんて思ってしまった。一方では少し離れたところで人が何千人と打ち上げられて死んでいて、暗闇に光るガラケーのヤフーニュースの見出し画面を見て、頭がおかしくなりそうだった。街中でみる夜空が綺麗だと陳腐ながらに当時が思い出されて泣けてくるので、あまり見えなくてもいいかな、という気持ち。

 

・真夜中の今出川通練り歩き死を渇望した友人恋し

 

この友人については以前このブログでも書いた。街頭の少ない夜道とは今出川通のことである。これはこの短歌のまま。会えるんだったら会いたいな。

 

・借りたまま羊も貴女も沈黙を貫き通してはや幾年

 

これも同じ友人について。彼女はとてつもない本読みで、割と知り合って序盤の方に『羊たちの沈黙』を借りたのだが、未だに全くよんでおらず、返さないまま音信不通となった。宇多田ヒカルが人間は元来寂しさを内に持っていると言っていたが、その寂しさの深淵を感じる。

 

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・後ろ髪引いてほしくて残してる襟足長めのウルフカットで

 

なんだかこれは今までの短歌のなかで1番いいねをもらったのだが、こそばゆい。ありきたりな女であり失恋をし髪をウルフカットにしたのだが、髪を切るのが少し惜しい気もあり、襟足は元の長さをそのままキープしてもらった。個人的に後ろ髪は引かれたくないが、誰かは私という存在をそのうち少しでも惜しいと思って後ろ髪を引いていてほしいのだ。と、当時は思っていた。ちなみに髪は引っ張られると痛いので絶対にしない方が良い。妹と喧嘩して学んだ。

 

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・流れゆく人間関係の楽譜に何十(層)ものロングトーン

 

投稿するときに誤って「層」の漢字をすっぽぬかしてしまった。最近関わる人の数が増えて嬉しい、それが綺麗な和音かどうか定かではないが、私の中に楽譜があり、関わる年月の長さだけ全音符が走っている。

 

・不協和音隣り合う粒の近すぎる距離がある方がちょうどいい

 

人間同士、関係が近すぎると小さなズレが生じてくることもある。微細なサンドペーパーの擦れ合いのようなものが起こり、お互いがすり減る。隣り合う音同士の和音は聴くのが辛い時もあるけど、一音分開くだけで綺麗に聴こえて、それは人間同士も同じかもねということ。

 

・単音で奏でる旋律は寂しくソナチネにすらなり得ない

 

音が少ないほうが覚えやすいし慣らしやすいけど、やっぱり一人だけでは少し寂しいし幅も狭まる時がある。己の中にやりたいことが無限にあって、人といることで制限されることもあるけど、私は割と他人と行動することで経験が広がることが多いので、そのうち協奏曲くらいになればいいな。知らんけど。

 

・鳴り響くケークウォークのステップをうまくできたらキャベツと呼んで

 

愛しい人のことをフランス語で「シュシュ」と呼ぶことを高校時代に知り、それすなわちキャベツという意味だそうだ。かたや私はゴリウォークのケークウォークという曲が好きで、弾けるようになりたいと思ったものだがまあピアノをやったことがない人間には難曲である。かなり好きなメロディ。今更調べたら、どうやらドビュッシーがシュシュ(すなわち娘)に書いた曲だったらしい。この短歌を書いてしばらくした後、「◯◯できたら愛してね」という書き方に、自分は典型的な条件付きの愛情の受け取りを経て生きてきたんだと痛感した。

 

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大学を卒業し、フリーターをしていたのだが、コロナ禍もあり色々と上手くいかず、一人枕を濡らすことも多々あった。もともとほくろができやすい体質で割とコンプレックスなのだが、うっすら泣きぼくろができた時は少し嬉しかった。

 

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スモール追記

 

・寝れてない明日か今日とかもはや無い安眠できる“今夜“がほしい

割と不眠になりがちなのだが、あまりにも起きすぎていると時計で定まっている日付が全て曖昧になりスペクトラムのなかを生きているだけの感覚に陥る。ちゃんと眠れたらそれは「今夜」となり「昨晩」となる感覚が私にはある。幼少期なぜか日を跨ぐことが怖かった。あとはお店の閉店時間。終わりを迎える感覚に恐怖心を強烈に抱いていた。

 

・青空に浮かぶ天使を見上げつつ食べたドリアは299円

 

私はサイゼリアが大好き。最近ドリア食べてないな。

 

・喫煙者肩身に狭くなったもの灰皿と共に路傍に立ち尽くす

 

オリンピックの影響もあり煙草を吸える店が極端に少なくなった。ラッキーストライクを吸う先輩と「サイゼは神」と言いながら寺町のサイゼリアでごはんを食べながら煙草を吸いまくった日が非常に懐かしい。この日はデトロイトという映画を観た。

 

・靴もないパジャマの金髪大学生メシアはキャッチの兄ちゃん姉ちゃん

 

実家で少し暮らしていたとき、案の定私は母親と反りが合わずよく喧嘩をしていたのだが、その日は冬で夜中ということもあり家を出ようとすると止められた。のでベランダから出てやった。しかも玄関に行けばバレるのでパジャマ姿の裸足で。今思い出せば1番頭が狂っていた時だった。駅の方まで行きぼんやりしているとガールズバーのキャッチのお兄さんとお姉さんに声をかけられた。クリスマスが近かったのでトナカイとサンタのコスプレをそれぞれしていて、とても見た目も派手だったが、コンビニでお茶と靴下を買ってきてくれたり、たくさん声をかけてくれたり家の近くまで送ってくれたりして二人とも本当に優しかった。別件で年始の電車で涙が止まらなくなり、知らないお兄さんが温かいコーヒーを買ってくれたこともあった。知らない人たちに大きく救われた時期だった。本当にありがとうございました。私はこの経験を側から見たらかなりヤバいが大事にしていて、同じような場面に出くわしたら同じように優しくできる人間でありたいと思っている。ちなみに買ってもらった靴下は穴が開くまで履いた。

 

 

ちょっと書きすぎちゃった。実はほんとはこんな解説なんかない方がいいのではとすら思い始めた。こっそりあげておく。

記憶のなかでは雨

行きたい場所がある、小倉の図書館と魚町、望玄坂、リバーウォーク、台原の中学校沿いの大通り、定禅寺

 

記憶のなかの北九州と台原はいつも雨である。晴れの日は必ずあったのに晴れだった記憶が薄い。気持ちが塞ぎがちな年頃だったせいだろうか。そういえば気分が落ち込んでいる時の視界というのは曇りがちらしい。

 

枝光の望玄坂を傘を忘れて、土砂降りの雨の中を歩いて帰った。JRに乗れば人々はギョッとし目を逸らす。本来持って行ってはいけないiPhoneで音楽を聴いた。当時ハマっていたのはアジカン、君という花、転がる岩、君に朝が降るチャットモンチーのシャングリラ。制服で学校帰り友達と遊びに出かけるようなタイプでもなかったので、制服姿の写真は実に少なく、花の女子高生時代は闇雲に、投げやりに終了した。猫はいまだにいるのだろうか。もうスペースシャトルは見えない。

 

謎のマカロニ頭の像を見て、クエストへ行く。たまにその前に無印へ寄り、次はブックオフ。魚町商店街のダイソーを覗いて小倉駅コレットの本屋へ行く。気が向いたらAMUの雑貨屋とWEGOへ。基本的に本屋ばかり行く生活。今でもそうであるが。

 

リバーウォークはたまに演奏会が開かれていた記憶。精華女子の演奏をみた覚えがある。上手だった。あとは速水もこみち等身大パネル。顔が異様に小さい。1番端っこにある楽器屋でバンドスコアをパラパラ捲る。何故か一度だけBUMP OF CHICKENのKのスコアを買う。今は何処へ行ったか不明。

 

図書館での思い出は深くなく、しかし成人式の頃に暇潰しで行った際に読んだ、当時の恋人が好きだという筆者の本を読み、不思議な気持ちに包まれた。友達からダイソーで灰皿買っといてと言われたことを思い出し、チャチャタウンへ向かう。

 

 

台原もなぜか暗い。友達と学校帰りに、スズメの大群が水たまりと電線を行き来し続けるのをしばらく一緒に見ていた。大宮でもときどき見かけるけどあれはなんなんだろうか。

 

親とたびたび喧嘩して大通りをよく歩いていた。家にいるのが辛く、地震のために引っ越したばかりの家、高校進学は検討つかない地へという謎の不安感に包み込まれていた。台原は地下鉄があったのでよく仙台駅の方まで出ていた。ロフトで糸井重里の本を買った。もう少しで10年経つが、未だに読んでいない。

 

定禅寺はうってかわって新緑と晴れ、ここは非常に素晴らしい道。デューク更家のようなポーズの身体を捻った女の銅像がある。メディアテーク、行きたい。初めて会田誠の絵を見たのもそこのショップでだった。イクラを産卵する女の絵、やはりあれは家に欲しい。

 

半年くらい放っといて。たまに私にいいねの愛を送って。全てを休みたい。行きたい場所へ行きたい。

夜道と彼女


 夜道、あまり街頭がない大きな道沿いをとぼとぼ歩くと、軽く酒で鈍らせた脳の片隅の記憶が引っ張り出される。

 


 大学一回生、私には少ない友人のひとりに頭のいい女がいた。同じ齢であるはずなのに幼少から周囲の「大人」の対応に今でも怒りで震えるような体験をしたせいかは知らないが、少なからず私より人生を達観していた。

 


 「君が子どもを産むなら僕に生きる理由が生まれる。だから君は子どもを産んで。」

 奇妙なお願いだが、その願いを叶える前に私たちは疎遠になった。

 


 青の喫茶店で閉店間際、窓際の席で死への思慕をする友人に不安を抱きつつも、その空間の居心地の良さに酔いしれ、コーヒーに手をつけられず、ずっとこのままならいいんだ、と誰へでもなく静かに願った。

 


 「死にたい」とよく言う人はこの世にごまんといる。いや、ごまんといるコミュニティに私が属しているだけかもしれない。しかしそういう吐露への意見として有名なのは、そういうことを言う人に限って死なないというものだ。これは嘘である。彼女は実際に死にたいと毎日私に言い、自らの命を終了させるための決断をした。未遂に終わったが、それが彼女を幸せにしたかどうかはわからない。

 


 人がいつ死ぬかなんて、他人が選ぶ権利などない。なのに、私の愛する人が選択した生への終止符を、私のエゴイズムで無理やり打たせなかった。今となっては疎遠だというのに。

 


 未遂に終わったがその後も彼女は緩やかに病んでいた。類は友を呼ぶとはよく言ったもので、私も「そのケ」があったため、二人で部屋に集まってはほとんど無意味にアニメ鑑賞会、近所のスーパーで10個入り198円ぐらいの餃子を貪り食い、うまく飲み込めない分は酒で流し込んだ。そして夜中になり不安を爆発させ、幼児のように泣きじゃくる私の横で彼女は静かに涙を流した。

 

 彼女が自殺未遂を図るまでの1、2週間、私はどうしてもそれを実行に移されるのが怖くて、なるべく一緒にいようとした。真夜中に二人で出て行くこともあった。ある日は今出川通沿いにある餃子屋で餃子を食べ、また別の日は螺旋階段を登った先にある狭い狭いバーでチープで小さなピザを食べ、彼女は梅酒を飲み、私は何をのんだかはもう覚えていない。いつものスーパーで餃子を買ってカラオケ屋に持ち込み(思えば私たちは餃子ばかり食べている)、朝5時くらいまで歌い続けた。入店時に受付の店員に取り上げられ、ひとしきり歌って店を出た後にラブホテルの目の前で二人で餃子にかぶりついたこともあった。彼女が歌った“同期の櫻”と“損と嘘”は私のなかで強烈に残る。

 


 彼女はすこぶる頭が良くて、ユーモアがあった。対して私は何もない屑みたいな存在で、何にも没頭できず、ひたすらに過去を悔やみ妬み、責任逃れをしていた。今でもそうである。彼女はたしかに私の味方だったが、あくまでも中立的だった。稚拙な私にはそれが憤りであった。今思えば、こんな友人、後にも先にもいない。私は私の日常から、愛の深い中立派のよい友人という存在をポツリと失ったのだ。首を吊ろうとするたびに、ベッドの上でナイフを握りしめて口から泡を吹いて横たわっている彼女が思い出されて、涙が出て止めるのだった。死にそうな彼女は今でも私のなかで生きている

 

 

京都と私

 

京都に戻りたい。今年絶対に実現したい野望である。

「京都に来てからいいこと一つもないんだよね。」大学進学と共に地方から京都へ来た私と同じ状況の友人は、一回生のときこんな話をした。友人は晴れて就職に伴い上京し、他の友人たちもほとんど東京か地元へと散った。私は5年の歳月を経てなお、京都にいる。否、住んではいないが、やっぱり京都に戻りたい。

一回生の頃、あんなことを言ってしまったから、京都の神やら霊やらに憑りつかれたんだろうか。あれほど京都なんか、京都なんか、と己の大学進学を呪うのと同じように独り言ちたというのに、いまや口を開けば「京都に戻りたい」とロボットのように自然に出てくる。

一度目の違和感は大学3回生の頃だった。入院をし、親が関東からわざわざ大阪へ越してきた。あまり乗り気ではなかったが一緒に住んだ。案の定、一度一人暮らしを経験したズボラな女、しかも両親への確執がある女が今さら家族と一緒に仲良しこよしで住めるはずもなかった。家出同然で京都へ戻った。当時は、両親と一緒にいるために、大阪から出たいんだと思っていた。

2年の再・一人暮らしin京都を経て、今度は私の就職が決まった。当初は京都から通っていたが、往復おおよそ4時間の距離、しかも全く慣れない土地への通勤は心身共に甚大な疲弊感をもたらした。ついに引っ越した。慣れた京都を離れた。

京都を離れたくないという気持ちはあったが、社会人として頑張っていこうという気持ちがあったため、通勤によって体力を消耗して仕事に支障が出ては本末転倒だ、と考えていた。実際そうではあったし、引っ越した後、職場へは自転車で10分程度で通えて非常に快適であった。通勤するという点においては。

しかしそんな職場もすぐに辞めてしまった。上司からの謎の叱咤に耐えられなかった。生意気だとか、逃げているだとか、言われるだろうし自分でも若干それは感じている。コロナ禍で転職も難しく、いまやれっきとしたニートだ。辞めなければよかったなとすら思う。あんなに人に攻撃的な言葉を平気で浴びせることができる人間が、いまだに会社で働いていると思うと非常に腹が立つ。悲しくなってくるので、辞めずに意地でも頑張っておけばよかったのかなとすら思う。でも毎日の胃痛や湿疹や体調不良を考えたら、もう仕方ないのかもしれない。過ぎたことなので何とも言えるのでもういい。

無職になって暇だというせいもあるだろうが、自分には引っ越してきた部屋の中のもの以外、いま住んでいる場所には何もないことを痛感した。そして友人であるとか、心の拠り所だとか、そういったものは京都にすべて据え置いてきたことも肺腑に染み入った。

現実から逃げて逃げて逃げるように、毎日電車に乗り込みいつものカフェへ行く。私ははやく「いつも通り」を取り戻したいのだ。しかしそれもしばらくはできなさそうだ。無職で収入がないこと、コロナによって緊急事態宣言が発令される寸前で県またぎの移動へ辟易していること、帰りの電車の虚しさのこと。すべてが私に襲い掛かる。大げさだが。

家にいるといろんなことを気に病んでしまって希死観念が強くなる。本当は病院にでも通って、カウンセリングにでも行った方がいいのだろうが、いかんせん経済的な余裕がない。コーヒーを一杯、550円で、いつも通りの場所に身をおけるほうが、自分にとっては安く、安心できるのだ。

今年はポジティブに生きていきたい。できるのだろうか。少年ジャンプのようなスローガンで生きていければ一番いいのだが、努力とは自分ではなかなか評価できないため、難しい。もうがんばる気持ちがないのだ。頑張らなければならないのに。鬱々としてしまう。生きねばならないのに。